2006年06月29日

川沿いを歩く

 愛の言葉が、ひとの心を深く傷付けることもある。夏の日のたそがれに、川沿いの道をひとり歩くとき、そんなことをよく考えている。川面には色を変えてゆく雲が映り、その間を、つがいの鴨が静かに流れている。風が草木を揺らし、葉擦れの音がした。風は私をも包み、私は立ち止まり、遠くを眺める。遠いところ、川の源流を。空の果てを。
 沈黙することが、愛であったのだ。川沿いの道をひとり、そんなことを思いはじめる頃、川面には街の夜の灯りが映っている。風に吹かれ、空を仰ぐ。私は帰路につく。
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2006年06月12日

かわいそに

404883861X 田辺聖子さんの「残花亭日暦」を読みました。図書館でふと手にして、ぱっと開いたその頁にある歌がのっていて、それをすぐに大好きになったためです。わたしはその本を、立ち読みするのではなく、ちゃんと借りて、家でじっくり読むことにしました。
 最初にわたしの目に飛び込んできて、そして大好きになったという歌とは、こういうものでした。
「いささかは 苦労しましたと いいたいが 苦労が聞いたら 怒りよるやろ」

 重みと軽さを持つ、こういった表現に、bkntmrgは憧れてやまないのです。

 家に帰りつき、ちゃんと読み始めれば、この本は田辺さんの日常をえがいた日記エッセイであり、そして主には、夫との別れが綴られているということがわかりました。
 夫の入院、看病、死別。こう並べられると、かなしみや苦しみ、というものばかりが連想されるでありましょうが、この本にあるのは、そういうものではありませんでした。かなしみというのではない何ものかが、bkntmrgを涙ぐませました。それは、愛別離苦の共感、というものとは、少し違うのです。
 入院をしている夫のところへ、田辺さんが行きます。これは、夫の死の二ヶ月半前の日付の日記からの引用です。文中の"彼"というのは田辺さんの夫のことです。
 テレビの音は絞ってあって、病院内は静かだった。広い窓の外は半分、夕焼け。そんなつもりはなかったのに、傍の小椅子に坐り、おだやかな表情の彼を見るうち、子供のように顔が歪んで、涙が出てしまった。彼は私に目を当て、ゆっくりと一語ずつくぎりながらつぶやく。
<かわいそに。
 ワシは あんたの。
 味方やで。>
 ――ここでわッと泣ければよかったのだが私は涙が引ッこんで、思わず笑ってしまい、
<なにも五七五でいわなくてもええやないの、パパ!……それ、川柳のつもり!?>
 うるわしい夫婦愛の愁嘆場がお笑いになって、彼もにやりとした。そして再びいう。
<アンタかわいそうや、いうとんねん>
<?>
<ワシはアンタの味方や。それ、いいとうて>

 夫の来るべき死を思い、妻が泣いてしまう。それを見て、かわいそうや、と言う夫。こんなふうに解説すれば、とても重いですが、この夫婦のやりとりは、ひたすら軽さがあって、かつ思いやりに満ちています。bkntmrgは、本当に憧れてやみません。
 そして思わず、わたしは自分自身を想うのです。
 「かわいそに。ワシは あんたの。味方やで。」
 こんなふうに言ってくれる人が、傍にいてくれていたなら、いてくれるなら、どんなにかいいだろう。
 「残花亭日暦」は、田辺聖子さんの他のあらゆる著作となんら変わりのない、良い本でした。肩から力が抜けた、笑いと愛情の本。ある夫婦の、ある男と女の、別れの話。重みと軽さをあわせもつ、bkntmrgが憧れてやまない、人と人との繋がりの描かれた本でした。
posted by bkntmrg at 00:40| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの本棚から | 更新情報をチェックする
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